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バレエ音楽はいかにしてクラシック音楽として認められたのか?(踊るクラシック!ここから始める舞曲入門④)

オーチャードホールと横浜みなとみらいホールの2拠点からの“東横シリーズ”として、2024年11月からスタートした『N響オーチャード定期2024/2025』。<Dance Dance!>をテーマに、舞曲を中心に心躍る名曲の数々を演奏するシリーズをより楽しむためのポイントを、全5回に分けて掘り下げています。第4回では、クラシックコンサートの定番レパートリーの1つであるバレエ音楽をクローズアップ。舞踏芸術の伴奏曲としての性質を持つバレエ音楽が、どのように芸術性を高めていったか解説します。


バレエの発展とともに増していった音楽の重要性

バレエとは、美術装置・衣装・音楽などを伴いながら、ダンスによって物語や人物の心情を表現する舞台芸術。そのルーツは、宮廷での余興としてルネサンス期のイタリアで踊られた「バロ(Ballo)」というダンスにあります。16世紀末にフランスへ伝わったバロはフランス語で「バレエ」と呼ばれ、宮廷舞踊として発展しました。フランス王室で特にバレエを愛したのがルイ14世で、パリに王立音楽アカデミー(パリ・オペラ座の前身)を創設したり、プロのバレエダンサーを養成するパリ・オペラ座バレエ学校を開校するなどバレエの発展に尽力。そしてバレエは“踊る芸術”として体系化されていったのです。
初期のバレエは音楽なしで上演されていましたが、こうした発展に伴って、踊りの美しさを引き立てる音楽が作られるようになります。また、宮廷の中だけでなく劇場でも上演されるようになり、アドルフ・アダンの名作『ジゼル』のように物語性・演劇性の高いロマンティック・バレエが大衆の人気を博しました。
さらにバレエは、19世紀半ば以降にロシアでめざましい発展を遂げます。フランスから招かれた振付師マリウス・プティパが、物語性よりも踊りのテクニックを重視したクラシックバレエを確立。音楽に関しても、すでにクラシック音楽の作曲家として名声を得ていたチャイコフスキーを作曲に起用し、バレエを総合芸術へと発展させていったのです。

1581年にプティ パレのサル ド ブルボンで上演された『Le Balet Comique de la Reine』の冒頭の場面
《Balet comique de la Royne》1582年 版画

イタリアで宮廷の余興として踊られた「バロ」がバレエの原型で、パリに伝わると王室の庇護を受けて発展。1581年にパリのプティ・ブルボン宮で上演された『王妃のバレエ・コミック』が最初の宮廷バレエといわれています。宮廷バレエは貴族たちの入場シーン、バス・ダンスというステップを駆使したスペクタクル、そして大舞踏会という三部形式で上演されていました。ルイ14世の擁護の下でバレエはさらに進化し、17世紀後半から19世紀末にかけてクラシックバレエが確立されたのです。

バレエ音楽の芸術性と存在感を高めたチャイコフスキー

チャイコフスキー以前のバレエ音楽は、あくまで“踊りの引き立て役”という控えめな存在でした。そんな中、『白鳥の湖』で初めてバレエ音楽を依頼されたチャイコフスキーは、交響曲などの作曲と同じような創意工夫を惜しみなく発揮。西欧音楽のロマン派の作曲技法に基づいた美しいメロディで登場人物の心情や物語の情景を描写し、総合芸術の一要素として“踊りと対等なバレエ音楽”を作ったのです。しかし、この画期的なバレエ音楽に見合う振付や演出がなされなかったため初演は失敗。作品の真価が認められたのは、1895年にプティパが曲にマッチする振付と物語を再構成してからのことでした。
『白鳥の湖』の初演に失敗したチャイコフスキーはバレエ音楽から遠ざかりますが、サンクトペテルブルグ帝室バレエ劇場の総裁フセヴォロジスキーから送られたバレエ『眠れる森の美女』の台本を気に入り、再チャレンジを決意しました。振付を務めたプティパは前回の教訓を生かし、「この場面は4分の2拍子で、ここから3拍子のワルツに変化」など台本に沿って音楽の調整や拍子を細かく指定。チャイコフスキーはこうした厳密な指定にしっかり応え、踊りや物語と密接に結びつき、なおかつ聴きごたえのあるバレエ音楽を完成させたのです。
チャイコフスキーならではの美しい調べが奏でられる『白鳥の湖』『眠れる森の美女』『くるみ割り人形』は絶大な人気を集め、さらに音楽だけでも楽しめるよう、2時間以上の演奏時間の中から名曲を選りすぐった組曲も作られました(選曲は楽譜の出版社が行ったという説が有力)。こうしてバレエ音楽はクラシックコンサートの人気レパートリーとして定着していったのです。

左)ピョートル・イリイチ・チャイコフスキー(1888年)
右)マリウス・プティパ(1890~1895年頃)
『眠れる森の美女』初演キャストによる宣伝写真(1890年、マリインスキー劇場)

プティパは自ら手掛けた台本に沿ってチャイコフスキーに音楽の指示を細かく与え、チャイコフスキーも交響曲的な要素を取り入れて表現に深みのあるメロディを創造。こうした天才2人の緻密な共同作業によって、聴いているだけで自然と物語の情景や登場人物の心情が浮かび上がってくるようなバレエ音楽が生まれたのです。なお、チャイコフスキーが手がけたバレエ音楽は3作品のみですが、20世紀にジョージ・バランシンが彼の交響曲や弦楽セレナードから新しい振付作品を生み出しました。

あまりにも斬新すぎたストラヴィンスキーのバレエ音楽

20世紀になるとバレエ音楽はさらなる変革を遂げます。ロシア・バレエ団を率いる興行師ディアギレフが、ロシアの民俗性を前面に出したバレエを上演しようと決意し、ロシア民話に基づいた『火の鳥』を構想。その音楽を当時無名の作曲家ストラヴィンスキーに託しました。『火の鳥』の初演が成功したことでストラヴィンスキーは一流作曲家の仲間入りを果たし、その後も『ペトルーシカ』(N響オーチャード定期第132回で全曲版を演奏)と『春の祭典』で作曲を務めました。
当時のストラヴィンスキーは原始主義を標榜していて、バレエ音楽においても原始主義ならではの激しいリズムや不協和音を多用し、強烈な印象を生み出しました。文字通り原始的なバレエ音楽は作品を重ねるごとに前衛性を増していき、特に『春の祭典』の初演では怒号渦巻く大混乱を巻き起こしたそうです。なお、ストラヴィンスキーはバレエ音楽単独でも演奏される機会を増やすため、自ら組曲を作成しています。今聴いても圧倒されるその迫力をコンサートで体感してみてください。

左)セルゲイ・ディアギレフ(1920年代)
右)イーゴリ・フョードロヴィチ・ストラヴィンスキー(1920年頃~1925年頃)
『春の祭典』初演時のバレエ・ダンサーたち(1913年、シャンゼリゼ劇場)

1909年にパリでロシア・バレエ団「バレエ・リュス」を旗揚げしたディアギレフは、観客が異国風の要素を好んでいることに気づき、ロシアの民俗性を前面に出した作品を上演しようと発案。そして『火の鳥』を構想したものの作曲の依頼を次々と断られ、最終的に当時無名のストラヴィンスキーが引き受けました。その後の『ペトルーシカ』『春の祭典』を含む3作品は、原始主義を標榜するストラヴィンスキーの音楽があまりにも斬新で、特に『春の祭典』の初演は観客から怒号が飛び交う大騒ぎを起こしたのです。

才能あふれる作曲家たちが豊かな表現力で芸術性を高め、音楽単独でも聴きごたえのあるものに仕上げたバレエ音楽。オーケストラの演奏に耳を傾けながら目を閉じれば、美しいバレエの情景が浮かんでくることでしょう。

文:上村真徹

〈公演情報〉
N響オーチャード定期2024/2025
東横シリーズ 渋谷⇔横浜
<Dance Dance!>

第130回 2024/11/3(日・祝)15:30開演 会場:横浜みなとみらいホール
第131回 2025/1/11(土)15:30開演 会場:横浜みなとみらいホール
第132回 2025/4/20(日)15:30開演 会場:Bunkamuraオーチャードホール
第133回 2025/7/6(日)15:30開演 会場:Bunkamuraオーチャードホール

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