ピアニストの要望に応えて最高の演奏をサポート/ピアノ調律師の仕事
文化芸術を支える“裏方の役割”にスポットライトを当てる「Behind Bunka」。第6回はピアノ調律師です。オーチャードホールが所有するスタインウェイ社製ピアノの調律を務める株式会社プロピアノの齋藤孝史さんに、意外と知られていない仕事の実態や、調律において大切にしていることなどを聞きました。
コンサートホールのピアノ調律は時間との戦い
ピアノは気候など環境の影響を受けやすい楽器で、温度や湿度の変化によって内部の弦が伸び縮みしたり、フレンジ(弦を叩くハンマーの関節部分)がぐらついたりネジが緩んだりして、音程が少しずつ狂っていきます。また、ピアノをたくさん弾いてハンマーで弦を叩く回数が多くなると、より早く音程の狂いやアクション(ピアノの鍵盤につながっている内部機構)の不調が生じます。
そうした音の乱れや不調を正すことがピアノ調律師の役割です。弦の張力を調整しながら音の高さを正しく合わせていく「調律」のほか、鍵盤の高さやアクションの動きを調整する「整調」、ハンマーのフェルトの堅さを調節して音色のバランスを整える「整音」、さらに「修理」が仕事の基本となります。
ピアノの調律を担当する場は一般家庭・コンサート・コンクール・工場まで幅広くあり、齋藤さんはスタインウェイ社製ピアノ専門の調律師として、主に全国各地のホールで開催されるコンサート当日に調律を行っています。ただし、作業のために確保されている時間は開演前の1時間半~2時間程度で、調律・整調・整音をひと通りすべて行うにはとても時間が足りません。そこで必要となるのが、行うべき作業の取捨選択と時間配分です。
「最初にピアノのコンディションを素早く見極め、ピアニストが理想とする音に近づけるために限られた時間をどう配分して何を優先的に行うか判断しています。さらにオーチャードホールは会場が広いので、コンチェルトでオーケストラと一緒に演奏してもピアノの音が客席までしっかり聞こえるよう意識して調整します。そうした音色の変化は調律だけでも十分可能で、ピアノの位置やキャスターの向きを調整するだけで音色が変わる時もありますよ」
さらにコンサート当日とは別に、オーチャードホールでは1年に1回、齋藤さんらピアノ調律師が2日間かけて保守点検を行っています。チューニングハンマーでチューニングピンを回すといった一般的な調律だけでなく、本体カバーを外して中からアクションを取り出し、すべてのパーツを1つずつじっくり点検しながら細かく調整しているのです。
調律師になることよりも大変なのは、現場で積んでいく経験
齋藤さんは幼い頃からピアノを習っていて、楽器に携わったり音楽を聴くことが好きな少年でした。中高生時代は吹奏楽部で音楽と親しんでいましたが、高校3年の冬に進路を真剣に考えた際「楽器に携わる仕事がしたい」という気持ちが改めて芽生え、国立音楽大学の調律科へ進学。そして、当時スタインウェイの日本総理代理店だった松尾楽器商会に技術者として入社しました(現在は株式会社プロピアノを立ち上げて独立)。
実はピアノ調律師になるために必要な資格はなく、ピアノメーカーが運営する養成機関や専門学校で調律の基礎を学べば、誰でもピアノ調律師のスタートラインに立つことができます。ただし、学校で得た知識だけで即戦力として活躍できるかというと、そうではありません。
「頭の中の知識も大事だけど、結局は自分で手を動かさないとなかなか上達しません。だから、とにかく経験を積むしかないんです。調律師になったら最初はピアノの修理を2~3年間務めて、楽器の構造やベストなコンディションについて徹底的に学びます。それから保守点検を通じて経験を積み、ようやく外に出て現場で調律を行うようになります。調律師になってから外に出るまで、だいたい5年はかかりますね」
今では全国のホール関係者やピアニストから絶大な信頼を集める齋藤さんにも、もちろんそうした“修業期間”はありました。
「最初の現場はジャズの殿堂として知られるブルーノート東京でした。ジャズって思いきりピアノの鍵盤を叩くから、音が狂いやすいんですよ。そこで、ハンマーで弦を叩いた時の音の止まりが良くなるよう苦労しながら、“狂わない調律”を覚えていきました。あと、NHK放送センターの専属調律師を務めていた時は、午前中に4台の調律を済ませなければいけないということもありました。コンサート以上に時間との戦いで、今のピアノのコンディションに対してどんな作業が必要かという瞬時の判断力を鍛えられましたね」
調律の仕事で大切なのは技術プラスコミュニケーション能力
ピアノ調律師になる資格はありませんが、では、ピアノ調律師に必要な資質はあるのでしょうか? 音の高さを正しく合わせる仕事内容を考えると“音感の良さ”が思い浮かびますが、齋藤さんが真っ先に挙げたのは「ピアノという楽器が好きで、さらに音楽が好きであること」でした。
「ピアノは音楽を奏でるものなので、『どういう音にしたいか』『どういう音がベストか』を考えるには、音楽が好きであることがとても大切です。あとは機械いじりが好きな人も調律師に向いてますが、ピアノはパーツがたくさんあって鍵盤だけで88もあるので、たとえば88回同じ作業を行っても途中で飽きないような忍耐強さも求められます」
さらに、齋藤さんはピアノ調律師に欠かせない資質として意外なものを挙げてくれました。それは“コミュニケーション”です。
「僕の場合はコンサートの仕事が多く、ピアニストから『こういう音を作りたい』という要望を聞き、その期待に応える作業ができて初めて信頼関係を築くことができます。ピアニストも10人いれば10人みんな違うことを言うので、うまくコミュニケーションを取れないと調律の仕事はやっていけないんです。ただし、ピアニストは自らの要望について『華やかな音が欲しい』『音がうるさいので大人しくしてほしい』などあまり具体的に言ってくれないのですが(笑)」
コンサートピアノの調律においては、一人ひとりのピアニストの要望に応えることが第一。つまり「こうすれば必ず正解」という決まった答えがないということです。
「調律がピッタリ合ってるのがいいかと言うと、必ずしもそうではありません。たとえば、ピアノは1音に対して弦が3本張っていますが、その3本がピッタリ合うことが状態としては正解ですが、それが豊かな音かどうかはまた別問題です。むしろ、弦が多少ずれることで太く聞こえたり長く聞こえ、音に膨らみが生まれます。そうしたさじ加減も、すべて経験によって培われるものです」
このようにピアニストのために調律を行う齋藤さんにとって、演奏後に「今日のピアノは素晴らしかったよ」という言葉をかけられると、この上ない充実感があるそうです。さらに、その演奏を聴くお客様に「今日の演奏は良かった」「今日の楽器は良かった」と思っていただくことで、さらに自分の仕事に納得できるのだとか。
今後の齋藤さんの目標は、松尾楽器商会に在籍していた時代に先輩たちから学んだり、また自らの長年の経験を通じて得た調律の技術を次世代に受け継ぐことです。
「ピアノの調律というのはマニュアルが存在せず、一種の口伝のようなもの。『先輩たちの技術を若い人に継いでいかないと途切れてしまう』という責任感は常に抱いています。また、これまで全国のホールでピアノを調律しながら築いてきたいろんな方との信頼関係を大切に守り、満足していただける仕事を続けていきたいですね」
文:上村真徹
〈プロフィール〉
国立音楽大学調律科でピアノ調律を学び、卒業後はスタインウェイ日本総代理店であった株式会社松尾楽器商会へ就職。
同社修理工房でのオーバーホール、出荷調整など行い研鑽を積む。
その後スタインウェイ社ハンブルク工場で半年間の研修を行う。
帰国後は主にコンサート調律、保守点検に各地のホールをまわる。
現在は松尾楽器商会社員有志と共に株式会社プロピアノを設立、取締役技術部長に就任。
NHK交響楽団をはじめ国内外オーケストラ、各マネージメントより調律依頼を受け、
また妻でありピア二ストの上原彩子の調律を担当し、各地のコンサートホール等のピアノ保守点検を行なっている。
「Behind Bunka」では、文化芸術を支える“裏方の役割”にスポットライトを当て、ご紹介しています。ぜひご覧ください。