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愛すべき祖国の舞曲から生まれたショパンとリストの名曲(踊るクラシック!ここから始める舞曲入門②)

オーチャードホールと横浜みなとみらいホールの2拠点からの“東横シリーズ”として、2024年11月にスタートする『N響オーチャード定期2024/2025』。新シリーズは<Dance Dance!>をテーマに、舞曲を中心に心躍る名曲の数々を演奏します。「Bunka Essay」ではこの新シリーズをより楽しむためのポイントを、全5回に分けて掘り下げていきます。第2回では、ロマン派を代表する作曲家であるショパンとリストの舞曲との関係をクローズアップ。それぞれポーランドとハンガリーから音楽大国へと上京した2人が、自らのルーツである民俗舞曲や民俗音楽のエッセンスを取り込んで完成させた作品と、曲へ込めた思いに注目しましょう。


ショパンとリストは国民楽派の先駆者

ヨーロッパにおける音楽の中心地は、ルネサンスからバロック時代にかけてはイタリアとフランス、そしてモーツァルトやベートーヴェンの活躍によってドイツとオーストリアへ移りました。その周辺の国々に住む才能豊かな作曲家たちは、活動の場を求めて音楽の本場へと集まり、クラシック音楽はより彩り豊かなものへと成熟したのです。
そして19世紀、クラシック音楽の主流はドイツ・ロマン派でしたが、ヨーロッパ各地で自国の国民性や民族性を重視するナショナリズムが芽生え、クラシック音楽においても民俗音楽や民俗舞曲のエッセンスを曲に用いる動きが強まりました。その中でも、ドイツ出身のブラームスによる『ハンガリー舞曲』のように異国趣味として作られたものとは別に、自らのアイデンティティや愛国心の証として母国の音楽的エッセンスを作品に取り入れる作曲家たちが現れたのです。彼らは「国民楽派」と呼ばれ、チェコ出身のスメタナやドヴォルザーク、フィンランド出身のシベリウスらが代表的な存在です。
国民楽派の作曲家たちが活躍するようになったのは19世紀半ば以降ですが、彼らよりひと足早く、国民楽派の先駆的な曲を作った作曲家がいました。それがショパンとリストです。

左)フレデリック・ショパン(1849年) 右)フランツ・リスト(1858年)

わずか1歳違いという同世代のショパンとリストが出会ったのは、1830年代パリでのこと。内向的で人見知りがちだったショパンとは対照的に、リストは外国語が堪能で社交的な性格。また、ショパンの音楽は詩的な叙情性を持ち味とするに対し、大音量と超絶技巧を見せ場としていたのがリスト。このように人間としても音楽家としても対照的な2人でしたが、自分にはない互いの才能を認め合い、私生活でも友情を育みました。しかし、ショパンの演奏会をリストが痛烈に批判したことをきっかけに2人の友情は決裂しました。

ポロネーズとマズルカに望郷の念を込めたショパン

ポーランドのワルシャワに生まれたショパンは、音楽家として大成するため20歳でウィーンへ向かい、さらにパリへと移ります。しかし、その後ポーランドは周りの国々に分割支配され、ショパンは戻るべき祖国を失ってしまいます。故郷から遠く離れた生活への寂しさが募る中、望郷の念に駆られたショパンは、ポーランドの民族舞曲であるポロネーズとマズルカのリズムをクラシックのピアノ曲へと昇華させたのです。
ショパンが生み出したピアノ独奏用のポロネーズは16曲、そしてマズルカは50曲以上と、ほぼ生涯にわたって作曲し続けました。ポロネーズは“ポーランド風”を意味する貴族向けの踊りで、ショパンのポロネーズ曲も堂々とした格調高さと美しいメロディが特徴的。一方マズルカは農民の間で親しまれた踊りで、ピアノ曲も内省的な味わいと庶民向け舞曲特有の飾らない素朴さを感じさせます。それは、自らのポーランド愛を謳歌すると同時に、異国にいても自分がポーランド人であることを忘れないためだったのかもしれません。
なお、ショパンはポーランド時代にも祖国の音楽的エッセンスを凝縮した曲を残しています。その1つが、N響オーチャード定期第130回の演目である、ピアノと管弦楽のための協奏的作品『ポーランド民謡による大幻想曲』。ポーランド民謡やマズルカの一種であるクヤヴィアクのリズムを盛り込んだポーランド色の強い曲で、ショパンがウィーンへ旅立つにあたって行った演奏会でもポーランドっ子たちから喝采を浴びたそうです。

コルネリ・シュレーゲル《空の下のポロネーズ》

ポロネーズは「タンタタ・タンタン・タンタン」という3拍子を基本のリズムとするポーランドの代表的な民族舞曲。男女のペアが何組も行列になり、大きめな歩幅でゆったりと歩くように進みながら優雅に踊るスタイルが特徴的で、貴族の間で好まれました。ショパンが作曲したポロネーズは踊るための音楽ではありませんでしたが、ポロネーズ独特のリズムだけでなく堂々とした格調高さがよく表れています。

リストの名作『ハンガリー狂詩曲』は民俗舞曲がベース

ハンガリーに生まれたリストも、自らの才能を伸ばすため12歳でパリへ移住。ショパンと比べてリストは異国での生活にスムーズに順応しましたが、リストの心から故郷ハンガリーへの思いが消えることはなく、彼もまたハンガリーを題材にしたピアノ曲や管弦楽曲を数多く作っています。
その中でも代表的なのが、ハンガリーの民俗舞曲チャルダッシュとその前身であるヴェルブンコシュをベースとし、約10年かけて合計19曲も作った『ハンガリー狂詩曲』。チャルダッシュはテンポが遅い部分と速い部分で構成され、遅い部分は哀愁を帯びた演奏、速い部分では情熱的でエネルギッシュな演奏が特徴的。『ハンガリー狂詩曲』のなかでも第2番は、徐々にテンポを速めていくパートがまるでダンスのように盛り上がり、旋律の親しみやすさと相まって今もなお高い人気を博しています。なお、N響オーチャード定期第130回の演目『死の舞踏』は、『ハンガリー狂詩曲』と同時期に作られたピアノと管弦楽のための曲。ピアノが奏でるパーカッシブなリズムが、まるで死神が踊っているような不気味さを感じさせて印象的です。

ブオナミコ・ブッファルマッコ《死の勝利》(1355年頃)フレスコ画

14世紀フランスの詩に「死の恐怖を前に人々が半狂乱になって踊り続けた」という内容を記したものがあり、この詩を主題とするとするキリスト教の教訓画が数多く描かれました。擬人化された「死」に生者が支配される様子を描いたもので、イタリアのピサにあるカンポサント(納骨堂)の壁に描かれた《死の勝利》もその一つ。リストはこのフレスコ画から『死の舞踏』の着想を得たと言われています。

ふるさとは遠きにありて思うもの──。作曲家として一旗揚げようと夢見て音楽大国の周辺地域から上京したショパンとリストにとって、幼い頃から慣れ親しんだ祖国の民俗舞曲や民俗音楽は、異国において自らのルーツを思い出させる大切な魂。その意味で、民俗的なエッセンスをクラシックへと昇華させた作品は、彼らにとって特別と言えるでしょう。そうした背景に思いを馳せながらじっくり耳を傾けると、聴き慣れた2人の名曲が違った響きで心に迫ってくるはずです。

文:上村真徹

〈公演情報〉
N響オーチャード定期2024/2025
東横シリーズ 渋谷⇔横浜
<Dance Dance!>

第130回 2024/11/3(日・祝)15:30開演 会場:横浜みなとみらいホール
第131回 2025/1/11(土)15:30開演 会場:横浜みなとみらいホール
第132回 2025/4/20(日)15:30開演 会場:Bunkamuraオーチャードホール
第133回 2025/7/6(日)15:30開演 会場:Bunkamuraオーチャードホール

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