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迷った末に見つけた自分らしい文章とは?山崎ナオコーラさんインタビュー

“文化の継承者”として次世代を担う気鋭のアーティストたちが登場し、それぞれの文化芸術に掛ける情熱や未来について語る「Bunka Baton」。小説家、エッセイストとして活躍し、今年作家デビュー20周年となる山崎ナオコーラさんの登場です。昨年、現代人が現代人の感覚のままに『源氏物語』を読んで楽しむためのエッセイ『ミライの源氏物語』が、第33回Bunkamuraドゥマゴ文学賞を受賞。評判を集め続ける山崎さんの軌跡を聞きました。


幼稚園の頃から作家になりたくて、
読書三昧だった学生時代

2004年、第41回文藝賞を受賞した小説『人のセックスを笑うな』で小説家デビューを果たした山崎ナオコーラさん。「誰にでもわかる言葉で、誰にも書けない文章を書きたい」と語る山崎さんは多くのファンに支持されてきました。
そんな山崎さんは、幼稚園に入る頃には「絵本作家になりたい」と思い、小学校の文集には「作家になる」と書いていたと言います。
小さな頃から本が大好きでしたが、特別好きだと感じたのは小学4年のときに出会った『不思議の国のアリス』でした。「それまで本というもの全部が好きだと感じていましたが、“これだ!”と思ったのを覚えています。言葉遊びに惹かれたのだと思います」と振り返ります。
その後も読書三昧だった山崎さん。学校では国語だけが得意だったとか。
「大学受験も国語がなかったら進学できていなかったと思うくらいほかはダメでしたが、国語は、古文にもはまりましたし、助動詞の活用とかも得意でした。私の子ども時代には“OL”っていう言葉があって、その“OL”という事務員には誰にでもなれるようなイメージがあったんです。中学のときの進路相談では第一希望に“OL”、第二希望に小説家と書きました。そしたら先生に“山崎は『OL』にはなれない。小説家の方がまだなれる”と言われたんです。確かに人と喋ることができないし、集団行動もできていませんでした。それで、小説家の方がなれる可能性が高いのかも、と考えるようになりました(苦笑)」。

「最初に書いたのは、学生が旅する小説だったと思うんですけど、日記に書き留めていた自分の好きなフレーズがたくさんあったので、そこからフレーズを抜いて使っていったりしました」。

卒業論文をきっかけに100枚以上の
小説も書けるだろうと

結果的に、会社員経験を経て作家デビューした山崎さん。ずっと「小説家になりたい」と考えていましたが、実際に小説を書き始めたのは大学の卒業論文を提出した後からです。
「小説家になるための方法が分からなくて、高校生のときに何人かの作家を調べてみたら、みんな一度は働いてから作家になっていたんです。それで社会で3年くらいはいろんなことを経験してからなるものなんだとのんびりしてしまって、全然書いていませんでした」。
しかし大学の卒業論文を書いたときに、意識が変化します。「『源氏物語』に関する卒業論文で、原稿用紙50枚という長さのものを初めて書きました。そのとき“これなら100枚でもいけるかも”と。卒論を12月に提出して、3月末が応募締め切りの文藝賞に送りました。そこで規定だった100枚以上に沿って初めて小説を書いたんです」。

二次選考まで残り、雑誌に自分のペンネームが初めて載りました。続けて送った翌年は一次選考どまりでしたが、3年目の『人のセックスを笑うな』で見事、文藝賞を受賞しました。特に小説を書くための鍛錬はしてこなかったと言う山崎さんですが、改めて考えてみると、「日記はよく書いていた」と振り返ります。
「10代後半から20代の間、ものすごい量の日記を書いていました。見たこと、友達と喋ったこと、行った場所や感じたことなど、いろんなことを書いていました。社会に対してこう思うなど自分の考えも書いていたので、今思うと、それが修行になっていたのかもしれません」。

「自分の考えたペンネームが雑誌に初めて載った時にすごく嬉しくて、“これは賞を取るまで送ろう!”と思ったんです」。

最初に提出した新聞エッセイは
10本書いて10本ボツに!

作家になる前に、アルバイトや社会人経験などをしておいたほうがいいと漠然と思っていた山崎さんですが、実際、そうした経験をして「良かった」と思っているそう。
「アルバイトもいくつもしました。マクドナルドでレジにも立ってたんですよ。“スマイル、サンキュ~”とかやってました(笑)。接客業は自分の性格と真逆の仕事でしたけど、1年以上やりました。でもやっぱり向いてなかったですね。会社員のときもミスをたくさんするし、意見は言わないし、やっぱり向いてなかったと思います。でも視野は広がったと思いますし、それまでどこか奢っていた部分を、社会に出ることによって叩かれた感じがしました。本だけに向いていた10代の頃までは、思考をしている人ほど偉いみたいな考えがあったと思うんです。でもそうじゃないんだと思えた気がします」。
文藝賞を受賞し、26歳のときにプロの作家としてデビューを果たした山崎さん。ほどなく新人作家としては異例の、新聞のエッセイ連載のオファーを受けます。しかし書き始めの頃は意外な壁も。それを乗り越えられたのも、外界との接触があってこそでした。
「新人ですし、最初にストックを作るために10篇書いてくださいと言われて書いたんですが、その10篇すべてボツになったんです。自分としてはすごくキラキラした言葉をいっぱい並べてよく書いたつもりだったのですが、“これは違う”と言われて。“エッセイというのは人に『読んだ感』を与えないといけない”と。そのためにも文章の中に、自分以外の“もう一人登場人物がいた方がいい”と編集者からアドバイスされました。自分の考えごと、頭の中のことを書くのではなく、誰かとの対話を盛り込みながら、こういう気づきがありましたといったエピソードにしないと、短い文章であるエッセイでは“読んだ感”を与えられないと」。
小説とエッセイでは読ませ方が違ってくるというわけです。
「それからは図に、これが切り口で、登場人物はこの人といったことを書いてから、取り掛かるようにしました。社会に対してとか性別に関することとか、書いている内容は自分の考えについてなんですけど、それを表現する切り口を、少なくともひとつは会話が入るような形に変えたんです。そしたら格段にエッセイっぽくなって。改めて最初に書いた10篇を読み直すと、自分の言語センスを出したいと思っていただけなんだと感じました。やっぱり外界との接触がないと文学にはならないんですよね。そういった意味合いでも、アルバイトや会社勤めの経験は、自分の場合は必要なことだったと思います」。

「学生の頃は友達がいませんでした。学校にひとりは必ずいるひと言も喋らない子。それが私でした。小、中、高校と本当に喋らなかったですね。本を読むこと自体が楽しかったこと、人と話せなかったこと、学校で読書ばかりしていた理由は、その両方でした」。

スランプから救ってくれた
亡き父の言葉

初めて手掛けた新聞連載を編集者との二人三脚で乗り越え、今では小説家であると同時にエッセイストとしても非常に人気の高い山崎さん。しかし「書いても書いても、自分の文章がいいと思えなくて、パソコンに向かって書こうとすると涙が出てくるような時期が3年ほどありました」と、いっときはスランプに陥ったこともあると明かします。
「上を見ていたんじゃないかなと思います。デビューしてから、同世代の友達が10人ほど一気にできて、最初はしょっちゅう会って遊んでいたんです。でもその仲間たちがいろんな賞を取って売れっ子になっていくにしたがって、会っても仕事の悩みも私だけが違うし、生活レベルも違ってきたりして、ついていけなくなってきたんです。編集さんからも“文学賞を取れば次から自分のやりたいことができるから、とりあえず賞を取ろう”みたいなことを言われていたんですけど、そこがクリアできなくて、スランプになって……」。
そんな状態から抜け出せたのは、お父様のひと言でした。
「その頃、父が闘病の末に亡くなったのですが、亡くなる直前、私に“賞とかなんていらないから。ただコツコツやればいいんだ”と言ったんです。“ああ、そうかも”と、胸にスッと入ってきて。“いわゆる文学をやめよう”と思いました」。
当時「あなたのは文学じゃない」と言われて傷つくこともあったと言う山崎さん。“文学をやめよう”と思った瞬間から、逆に文章の世界が開けたのだそう。
「文学という自分の頭の中で固執していたものから、離れようと思ったんです。いわゆる文学とくくらず文章芸術で見れば、文章を書く場所は、今たくさんあります。ネットだってあるし、文学フリマだってあるし。こだわる必要なんてないと。上にあがるステップを考えるのではなく、自分らしさを求めてただ自分の足もとを見て毎日コツコツやっていけばいいんだと思ったら、憑き物が取れたように楽になったんです」。
そして自分らしさ、自分の強みをこう語ります。
「半径100メートルから社会の切り口を見つけること。大きい視点ではなく、自分の足もとから見る。それが社会を書くうえで、私がやるべき仕事だと。コツコツと自分の足もとからの言葉を言語化していこうと思っています」。

「自信を感じられる瞬間は、“コツコツやれたとき”です。昨日やれたことが今日もできる。多分、明日もやれる。それだけ。それが自信だと思います。若いときは誰かに認められること、誉められることが自信になると思っていたけれど、それだとまた誉められなくちゃいけない。自信の基準は世間ではなく、自分の中にある。昨日やれたことを今日もやる。明日もやる」。

日常でも小説になるのだと
書きたい

そんな山崎さんは、今年で作家デビュー20周年。Bunkamuraドゥマゴ賞を受賞し、現在も増刷を重ねる『ミライの源氏物語』では、1000年も前に書かれた長編文学『源氏物語』と現代、そして未来の読者の橋渡しを担うエッセイを書きあげました。
「『源氏物語』を未来の読者も読めるように、中継ぎのような役割ができたらいいなと思ってこの本を出しました」。そして「『源氏物語』の頃も、他にもたくさんの作家がいたと思うんです。それらの作品は残っていないけれど、じゃあ意味がなかったのかというとそんなことはきっとない。そういった他の作家たちがいたからこそ『源氏物語』も生まれたと思うんです」と平安時代に思いを馳せた山崎さん。さらに、自らの作家活動についても次のように語ってくれました。
「そう思うと、私の小説がきっちり後に残らなかったとしても、文学シーンを良くする一助になるだけでもいいんじゃないかと思っています。現代文学という本棚の隅っこを飾るぐらいでも意義がある、次の文学者たちの仕事がしやすくなったり、面白いきっかけになったりすることはあるんじゃないかなと思っています」。
最後に、これから近々にでも書きたいと思っていることを教えてくれました。「『源氏物語』の現代語訳と、『源氏物語』のラストのその後を現代小説にしたいと思っています。『源氏物語』のラストは、浮舟という第三部のヒロインが恋愛をやめて出家して終わるのですが、浮舟はまだ23歳。そこから“意外と恋愛なしでも日常はキラキラしてるな”とか、尼さん同士のたわいのない会話とか、季節の移ろいなどを見つめたい。そうした日常でも小説になるのだと書きたいと思っています」。

文:望月ふみ

〈プロフィール〉

小説家、エッセイスト。1978年生まれ。性別はない。
國學院大學文学部日本文学科卒業。卒業論文は似ている人たちをカテゴライズする不思議さについて書いた「『源氏物語』浮舟論」。2004年に『人のセックスを笑うな』で文藝賞を受賞しデビュー。「誰にでもわかる言葉で、誰にも書けない文章を書く」が目標。『源氏物語』の現代語訳が夢。

X @naocolayamazaki
Instagram @yamazaki_nao_cola


第33回〔2023年度〕
Bunkamuraドゥマゴ文学賞 受賞作品

山崎ナオコーラ 著
『ミライの源氏物語』(2023年3月 淡交社刊)
選考委員 俵万智


「Bunka Baton」では、“文化の継承者”として次世代を担う気鋭のアーティストたちが登場し、それぞれの文化芸術に掛ける情熱や未来について語っていただきます。ぜひご覧ください。


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